レディオヘッドはジャズではない――彼らが
同時代のジャズ作家に与えた多大な影響から
ジャズ評論家、柳樂光隆が検証する:前編
そもそもレディオヘッドの楽曲は、ブルースやソウルのようなUSブラック・ミュージックよりも、UKのトラッドやフォークなどに近いメロディがあるように思う。レディオヘッドの楽曲が前述のブラッド・メルドーなどのジャズ・ミュージシャンに好まれた理由はそこにもあるのではないかと思う。
レディオヘッドの楽曲に関しては、様々な装飾=アレンジを取り払ってメロディだけを聴いているとシンプルなフォーク・ソングになりそうなものが実に多い。革新性ばかりが言われる『OKコンピューター』だって“イグジット・ミュージック”、“ノー・サプライゼズ”、“レット・ダウン”のような曲が並んでいるし、“エアーバッグ”も“パラノイド・アンドロイド”も“サブタレニアン・ホームシック・エイリアン”だって、核となるメロディは素朴で美しいものだと思うし、そこに現代的な感情を的確に宿らせていたことがレディオヘッドがここまで大きな存在になれた理由でもあるはずだ。
だからこそ、ブラッド・メルドーはレディオヘッドに目を付けたのだと思う。ちなみにこれまでブラッド・メルドーが取り上げた他ジャンルの楽曲にはヨーロッパ的なフォーク・ミュージックの香りがするものが非常に多い。彼が幾度となく取り上げたニック・ドレイクにしても、マッシヴ・アタックの“ティアドロップ”にしてもそうだし、USではあるがエリオット・スミスにオマージュを捧げた“スカイ・ターニング・グレイ”あたりも同じような意味を持った曲だと思う。
ジャズだけでなく、クラシックの世界にもレディオヘッド狂はいる。クラシック・ピアニストのクリストファー・オライリーはピアノ・ソロによるレディオヘッドの楽曲のカヴァー集『トゥルー・ラヴ・ウェイツ~クリストファー・オライリー・プレイズ・レディオヘッド』をリリースしている。
このアルバムを聴くと、メルドーとは少しだけ違うやり方で装飾を剥ぎとられたレディオヘッドの楽曲を聴くことができる。メルドーやオライリーによる演奏を聴いていると、その核となるメロディを丁寧に取り出す共通性と、ピアニストとして鍵盤のコントロールだけで陰影や音響を炙り出していく様に解釈の違いと演奏者としての個性が見えてくる。
そういった二人の演奏を聴いていると、レディオヘッドの中に、ドビュッシーの(そこまで甘くはないが)“夢想”のようなシンプルなメロディが見えてくるように思えるし、“水の反映”のように動的かつ時にアブストラクトに音を並べることで映像が描写されるような旋律が浮かぶんでくるようにも思えてくる。
またそこにはロマン派的な甘い旋律だけではなく、バロック音楽や教会音楽のような荘厳さが宿る瞬間もある。そういう意味では、レディオヘッドの楽曲が持つ骨格と最も近いのは、ニック・ドレイクなのかもしれないとも思う。それはUKの、アイリッシュ・トラッドだったり、教会音楽やバロック音楽を経由したクラシック音楽だったり、そういった音楽が根付いた土地から生まれたもので、レディオヘッドの音楽もそういう音楽なのかなと思うようになってから、2016年の『ア・ムーン・シェイプド・プール』を聴くと、このアルバムが持っている意味が少しずつ見えてきた。
それはクラシックやポスト・クラシカル云々というよりは、自分たちの音楽が持っている核の部分を軸に音楽を作りたかったんじゃないかということだ。
“バーン・ザ・ウィッチ”のようにヴァイオリンなどの弦を敢えて弾くように演奏させたり、ストリングスでドローンのように低音域を埋めたりしながら、ドラム・セットを使わずにグルーヴを作り出したりした曲もあり、非ノイズ的に生楽器を響かせながら、刺激的なサウンドを生み出している部分はこのアルバムの特徴でもある。
ただ、全体的には、レディオヘッドの楽曲の美しさが浮かび上がってくるようなアレンジが多く、メロディの周りにあるサウンドがどこまでもさりげなく鳴っていて、ビートでさえもどこか控えめなのが印象的だ。
とはいえ、このアルバムがクラシック的に聴こえてしまう理由にはおそらくアコースティックのピアノの音が耳に残るからではないかと僕は思っている。そして、それはこのアルバムにおいてとても重要なポイントでもある。
たとえば、“デイドリーミング”、“グラス・アイズ”、“ザ・ナンバーズ”で、ピアノはあまりに自然にトム・ヨークのボーカルに寄り添っていて、メロディと非常に相性がいいことがわかる。
一つの仮説として、レディオヘッドの楽曲はギターよりもピアノ(鍵盤)と相性がいいのかもしれないとも思う。実際にトム・ヨークがピアノで作曲をしているという話もあるが、フレージングやヴォイシングもピアノ的な構造をしている部分も大きいのだろうし、ピアノという実に西洋音楽的な楽器が軸になっているからこそシンメトリックなフレーズを使ったり、ドビュッシーやメシアン云々のようなクラシックからのアイデアを取り入れようとしたりしやすいし、そこに向かいがちでもあるのだろう。
そういった部分も含めて、ブラッド・メルドーやクリストファー・オライリーといったクラシックとの関係があるピアニストがレディオヘッドの楽曲に魅了されるのかもしれない。さらに言うと、ピアノに特化した構造に合わせるために、ギタリストのジョニー・グリーンウッドがギターらしいフレージングのギターをレディオヘッドの楽曲では弾かないのかもしれないとも思う。
トム・ヨークのソロ作『ジ・イレイサー』を聴くと、ここでは実際にピアノも入っているし、鍵盤的な音使いの電子音も多い。ジャズ・トランペッターのクリスチャン・スコットは、トム・ヨークのソロ作に収められた“ジ・イレイサー”を自身のトランペットとプリペアドされたピアノ、打ち込み的なビートを模した人力のドラムによってカヴァーしている。
トムのボーカル部分を担うトランペットはまるで北欧のジャズのようなフォーキーなメロディが浮き上がり、そのメロディがプログラミング的なミニマルなビートとどこまでも相性がいいことがわかる。
北欧スウェーデンのジャズ・ピアニストのエスビョルン・スヴェンソンがレディオヘッドからのインスピレーションを受けて90年代に作り上げたサウンドを発端として、現在、ヨーロッパではゴーゴー・ペンギンやコリン・ヴァロンなど、様々なピアニストがレディオヘッドからの影響を昇華したサウンドを次々に生み出しているが、それはレディオヘッドの音楽のヨーロッパ的フォーキー/クラシカルな特性から派生したものといえるだろう。『ア・ムーン・シェイプド・プール』は、ある意味でそういったバンドたちと並べて聴くことで聴こえてくることも多いはずだ。
そういえば、ジャズ・ピアニストのロバート・グラスパーが2007年に“エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス”をカヴァーした時には、プログラミング的なビートの上で、ピアノを奏でていた。
同じアルバム(『イン・マイ・エレメント』)ではJ・ディラをオマージュした“J・ディラルード”という楽曲も演奏していて、そこではJディラ的なヒップホップ・ビートの上でピアノを奏でていた。
まだ確信を持ったとはいいがたい演奏ではあるが、おそらくロバート・グラスパーは2000年代にジャズとプログラミングされたビートを融合させるための様々なアイデアを練り上げていて、その中でも大きなヒントになったのが、ヒップホップ/ネオソウル・サイドではディアンジェロ=J・ディラ=クエストラヴで、ロック/エレクトロニック・ミュージック・サイドではレディオヘッドだったのではないかと思う。
2006年に『イグジット・ミュージック:ソングス・ウィズ・レディオ・ヘッド』というトリビュート盤がリリースされていて、そこにグラスパーは参加してはいないものの、クエストラヴ、クリス・デイヴ、ビラル、サーラー、バッドプラスなど、様々なヒップホップ、ネオソウル、R&B、ジャズのアーティストが参加していて、彼らがカヴァーしたレディオヘッドの楽曲を聴くことができる。
これを聴くと、レディオヘッドの楽曲がプログラミング的な感覚を通過した生演奏によりカヴァーされることとの相性の良さを感じると同時に、レディオヘッド=トム・ヨーク由来のメロディの重力の強力さを感じることができる。どうやら誰が演奏してもUSブラック・ミュージック的な雰囲気を吹き飛ばしてしまうようだ。
ロバート・グラスパーは2015年に『カヴァード』というアルバムの中で再びレディオヘッドの楽曲を取りあげている。ここでは『イン・レインボウズ』に収録されている“レコナー”を選んでいるが、ここでレディオヘッドの楽曲はあまりに自然な形でアコースティックのピアノ・トリオのサウンドに昇華されている。
元々ポスト・ブラッド・メルドー的な現代ジャズの次世代として出てきたグラスパーは、レディオヘッド的なフォーキー/クラシカルなメロディを得意としているピアニストでもある。彼はそういったレディオヘッドの特徴を的確に掴みながら、自身の音楽に反映することで、進化していった。そんなロバート・グラスパーのロックやヒップホップの手法を取り入れながらジャズを拡張していったサウンドは今、世界中の様々なジャンルに参照されている。
『OKコンピューター』以降のレディオヘッドのサウンドは、ジャズを中心に見ても相当大きな影響を持っているはずだ。少なくとも、90年代以降に、そんなロック・バンドは他にいない。それは彼らがロック・バンドという形態にこだわりながらも、そこから離れていくことに引き裂かれながら、ロックの枠を拡張し続け、時に枠を飛び出したい欲求とも葛藤し続けた結果でもある。ここでは言及していない様々なジャンルに彼らの影響は息づいている。僕らはまだまだレディオヘッドから多くを発見できるはずだ。
田中宗一郎に訊く『OKコンピューター』と
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表現してきたもの、その独自性と謎:前編