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ANTI Rihanna (Universal) by KOREMASA UNO
RYUTARO AMANO
MASAAKI KOBAYASHI
February 08, 2016
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ANTI

「Gift to my navy!!!」とリアーナは言った

SEKAI NO OWARIのFukaseがあれだけ「♪アイムゴナビィジアンタイヒィロ、アイムゴナビィジアンタイヒィロ、イェッ!」と念入りに歌っていたのに、本作の邦題は『アンチ』となった。まぁ、それはいい。本国ビルボードのアルバム・チャートでは、サムスンお買い上げのTidalでのフリー・ダウンロード分をカウントしなかったために初週は27位に。まぁ、それもいい。次週は当然のように1位になったし、もうリアーナはチャートだとかCD売り上げだとかとは別の次元に、多国籍企業マネーをガッツリと掴んで自ら足を踏み込んでいったのだから。さらに驚くべきことにリアーナは、本作で先行シングルの概念をもぶち壊した。昨年リリースされて、ファンの誰もが次のアルバムに入ると思っていたポール・マッカートニー&カニエ・ウェストとの“フォー・ファイヴ・セカンズ”も、続けてカニエがプロデュースに参加した“ビッチ・ベター・ハヴ・マイ・マネー”&“アメリカン・オキシジェン”も、今回のアルバムには収録されていない。今作から原盤権を完全掌握したリアーナが、ポールやカニエらに権利が分散する曲を入れたくなかったのかとも邪推したが、だとしたらテーム・インパラ“ニュー・パーソン、セイム・オールド・ミステイクス”のほぼ完コピによるカヴァーを収録している理由の説明がつかない。

ブルース・スプリングスティーン“ボーン・イン・ザ・U.S.A.”へのアンサー・ソングとして意図されたという“アメリカン・オキシジェン”を聴いた時(厳密にいうとそのミュージック・ヴィデオを初めて見た時)の「リアーナ姉さん、そこを引き受けるか!」という興奮は、だからここにはない。いや、だって、タイトルが『ANTI』と発表された時点で、嫌が応にも期待しちゃうでしょ。本作で歌われているのは、リアーナの極めてプライベートな恋愛とセックスとドラッグとルーツと現在地について。では、『ANTI』とは何に対するアンチなのか? レコード会社をはじめとする旧態依然とした音楽業界? リアーナ利権に群がってくる広告業界やファッション業界? いまだにEDMアンセム“ウィ・ファウンド・ラヴ”で止まっている(主に米国以外における)音楽的なパブリック・イメージ? 私生活を追っかけ回して小銭を稼ぐ世界中のパパラッチ? きっと、その全部なのだろう。でも、結果的にリアーナが我が道をツッパリ倒した本作を決定づけているトーンは、『ANTI』という言葉から想起されるような攻撃的なものではなく、ちょっと胸焼けするほどの自己肯定感だ。

リアーナのコンサートのバック・ステージ(リアーナは裸足で移動するため、そこでは彼女の足の裏に付着する可能性のあるチリ一つ落ちていることは許されないという)には、公式に彼女をスポンサードしている/していないにかかわらず、ありとあらゆるハイブランドのバッグや服やコスメが貢物として山積みになっているという。もちろん彼女はそんな資本主義&物質文明のゴミ山の横を涼しい顔をして裸足で素通りしていくわけだが、万が一でもたまたま彼女の目に止まって、それをプライベートで身につけ、その姿をパパラッチのカメラが収める可能性があれば、各ブランドの広報担当にとっては大快挙というわけだ。

そういう世界で正気を保っている人間(正気を保っていなければ自身によるレーベル運営や原盤管理なんて不可能だろう)を、我々の常識で推し量ることはできない。Tidalでの音源リークに続く期間限定フリー・ダウンロード。iTunesでのリリース時にぶっきらぼうに付け加えられた最後の3曲。矢継ぎ早のフィジカル・リリース。周到に計算されたものなのか、やっつけ仕事なのか、もはやそれさえもわからないままアルバムの概念を内側からも外側からも揺るがす問題作『ANTI』。楽曲単位ならばともかく、もはやアルバムとしてどうレヴューしていいかもわからないが、彼女のANTIの矛先は批評家にも向かっているということなのだろう。「Gift to my navy!!!」。フリー・ダウンロードを告知する際、リアーナはそうツイートした。「navy」はリアーナのファンを表すスラングとして知られているが、LUNA SEAの「slave」以上にちょっとドキッとさせられる言葉だ。「私の軍隊」か、そうじゃないか。大切なのはそれだけ。好むと好まざるとにかかわらず、今の時代のポップ・ミュージックの有り様がその一言に集約されている。

文:宇野維正

すべてをかなぐり捨ててシーンの最前線へと投げ込まれた実験作。
「ポスト・イーザス」の荒野でリアーナは歌う

その起点はウィーケンドでもフランク・オーシャンでもあるし、あるいはラッパーのドレイクかもしれない。1990年代に確立されたコンテポラリーR&Bというアフリカン・アメリカン独特の音楽が様式化、そして懐古と革新の両面を携えた古典回帰などを経て、今、新たな変容の時代を迎えていることは多くのリスナーにとってぼんやりと、だが確実に共有されている事実だろう。その変容とは、端的に言ってサウンドの先鋭化である。ミゲルのような商業的にも批評的にも成功の果実を手にした新たなスターから18+のようなアンダーグラウンドな存在までをも含めて「インディR&B」あるいは「PBR&B」等の仮のラベルは貼られてはいるが未だ適切な言葉が与えられていないこれらの音楽は、新しいヒップホップとダンス・ミュージック、同時代のインディ・ロックからの影響を多分に受けながらインターネットとSNS――もっとも重要なエッセンスかもしれない――をサーフしている。そして、既に確立されたR&Bという音楽の形式を内破しようと試みている。

リアーナの新作『アンチ』を聞くにあたって予習は必要ない。はっきり言って彼女のディスコグラフィは一旦忘れてもらっていい。その代わり、上に書いたR&Bの変容だけを心に留めておいてほしい。「リアーナの『アンチ』はビッグ・ポップ・アルバムの終わりの始まりになるだろう」と〈ヴァルチャー〉誌は書いた。そう、2000年代を通してヒット・チャートとクラブを席巻したポップ・スター、リアーナは、最新作において自身のビッグでポップな作品群をめちゃくちゃに切り裂き、かなぐり捨て、新たな音楽的荒野へと足を踏み入れている。彼女がこんなエクスペリメンタルなアルバムでもって現在のR&Bシーンの最前線へと切り込んでくるなんて、一体誰が予想しただろう?

いや、もちろん予兆はあった。ポール・マッカートニーとカニエ・ウェストとのジェントルな共作曲を経てリリースされた2作のシングル、“ビッチ・ベター・ハヴ・マイ・マネー”と“アメリカン・オキシジェン”は『アンチ』のサウンドがどんなものになるのかを確実に予告していた。インダストリアル・トラップとでも呼んだらいいのだろうか、暴力的で怒りに満ちた前者と、「これが新しいアメリカ/私たちがいる新しいアメリカ」と繰り返す、ブローステップ/EDMを換骨奪胎したかのような不穏で不気味な後者。「ポスト・イーザス」(カニエ・ウェストは両曲のプロデューサーとしてクレジットに名を連ねている)のそれというほかないエクスペリメンタルでインダストリアルなサウンドは、これまでのリアーナの作品のアグレッシヴさとはその質を異にしている。以前のリアーナのアグレッシヴネスとは、R&Bや既存のダンス・ミュージックの範囲内に留まるポップなそれであったし、あくまでも彼女のポップ・スターとしてのキャラクター(「グッド・ガール・ゴーン・バッド」)に則ったものであったことを2作のシングルと『アンチ』は暴露している。

冒頭、SZAを呼び込んだ“コンシダレーション”で、ほとんど骨組みしかないような粗野なトラックの上でリアーナは自身のルーツのひとつであるダンスホールを歌っている。ドレイクやフューチャーのようなラッパーのフロウを半ば真似たような歌を聞かせる一方でどこかFKAツイッグスのエロティックな歌いまわしも想起させるダークな“ニーディド・ミー”(プロデューサーのひとりは今をときめくDJマスタード)。内省的なPBR&Bサウンドの“イェー・アイ・セッド・イット”(こちらはティンバランドによるプロデュース)。これらの楽曲は今作がいかに冒険的な作品であるかを端的にリプリゼントしている。特筆すべきは引き攣ったギターのフレーズがループされるノイジーな“ウー”、そしてテーム・インパラのカヴァーである“セイム・オール・ミステイクス”だろう。後者はほぼカラオケと言ってもいいようなプロダクションで元のトラックをそのまま流用しているにも関わらず、驚きと称賛をもって迎えられた。それは、新時代のマスターピースである『カレンツ』における特異なサイケデリアとグルーヴがリアーナによって新しいR&Bへと接続されたことにより、デジャヴュのような既視感(彼女の最大のヒット曲の1つである“アンブレラ”と聴き比べてほしい)と見たことのない地平が同時に広がったような奇妙な感覚を誰もがおぼえたからだろう。

とはいえこの作品の魅力はそのカッティング・エッジなあり様だけにあるのではない。“ジェイムズ・ジョイント”(ウィード賛歌)はシンセ・ベースとハーモニカでスティーヴィー・ワンダーのサウンドを模倣している。ドゥワップなコーラスに彩られた“ラヴ・オン・ザ・ブレイン”はまるでブッカー・T&ザ・MG’sが演奏しているかのようなサザン・ソウル風のトラックだ。リズム・アンド・ブルーズとソウル・ミュージックの過去と現在と未来がいちどきに邂逅するかのような当惑がここにはある。『アンチ』は先に書いたような音楽的な既視感と未視感とが奇妙に同居する作品として佇んでいるのだ――優れた作品の多くが常にそうであるように。

おもしろいことにここ数年のR&Bの変容は90年代や00年代のきらびやかで華美でポップなそれへの「アンチ」として巻き起こっているものではない。その変化を現在のR&B音楽にもたらしている張本人たちは先達であるポップ・アクトたちをリスペクトしている(誰もマライア・キャリーの音楽を憎んでなどいない)。その愛と敬意を、自身の作品を通してそれぞれに惜しみなく語っている。ウィーケンドの『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』にも、ミゲルの『ワイルドハート』にも、18+の『トラスト』にも、あるいはグライムスの『アート・エンジェルス』にもそれは言えることだ。若きR&B音楽の担い手たちにリスペクトされる存在として頂点にいたリアーナはこんなにもチャレンジングな傑作をつくりあげた。そして彼/彼女らと同じステージに立った。ケレラは、FKAツイッグスは、そしてフランク・オーシャンはこの『アンチ』に対してどんな作品でもって応えるのだろう。2016年、最高におもしろい年になりそうだ。

文:天野龍太郎

「アンチ」という言葉に託された理想(と現実)

そういえば、2年前あたりのエミネムのツアーで、リアーナは自分の客演曲以外に、ヘイリー・ウィリアムスのパートも、ダイドのパートも歌っていたなあ、と本作収録の“ネヴァー・エンディング”を聴きながら思い起こし、また、同じ頃、リアーナの2012年の“ダイモンズ”の作者であるシーアが、シンガーとしてブレイクしたおかげで、シーアが歌う同曲のオリジナルとの聴き比べにより、リアーナの歌い回しは、シーアのスタイルを忠実に踏襲したものだったと気づいたことを思いだし、ここに入っている“ハイアー”では、リアーナの歌のささくれだった部分だけがシーアと重なるかな、と感じながら聴いてみた。

奇しくも、そのシーアが、本作に先行するタイミングで発表したアルバム『ディス・イズ・アクティング』には、リアーナ用に書いた曲ながら、却下されたものが2曲も入っていて、それを作者のシーア自身が歌っているにもかかわらず、歌い回しがあまりにリアーナぽくて、作者がそこまで彼女を型にはめなくてもいいではないか、と思わず苦笑いしてしまった。実際、リアーナも、その2曲のうち“チープ・スリルズ”については、レコーディング現場に姿を現わさなかった、つまり、ドタキャンによって却下の意思表示をしたらしく、(シーアがこれだけ表に出てきてしまった以上)少なくとも、聴く者にシーアを連想させてしまうリアーナ像については、自ら力づくでも封印してしまいたい、と彼女も考えたに違いない。そう邪推させる力が本作『アンチ』には一定以上働いている。

そして、その邪推には、リアーナの中で目覚めた前作までの自分への「アンチ」精神も含まれているようだ。ただ、グライムスとブラッド・ダイアモンズとで、彼女のために書いた“ゴー”も、2014年の時点では却下されたことを加味すると、彼女の気分がアレもイヤ、コレもイヤだったのかもしれない。それに、前述したシーアを含め、単純に周囲の人々が、既存の自分のイメージに沿って作品を提供してくること自体に辟易していたのかもしれない。それに、「フェイク・ポップ・スターのプロジェクト」という自らのコンセプトに自家中毒気味になっていたグライムスの曲を歌うとなれば、たとえ劇的に方向性を変えようとしても、今まで王道ポップ・スターで演り続けてきた自分が、さすがに、そっちの方向にまでは振り切れなかった、とも考えられる。

で、その振り切れ方の一つの指標が、テーム・インパラの“ニュー・パーソン、セイム・オールド・ミステイクス”を、”セイム・オール・ミステイクス”と微妙に改題し、発表前にライヴで演ってみたりすることなく、いきなり本作に収録したあたりではないだろうか。さらに深読みをしてみるなら、この曲のサビで、リアーナに「全く新しい人格に変わったみたい(でも、同じ過ちを繰り返してばかり)」と繰り返し歌われると(彼女の私生活での交際相手が変わったことで、彼女自身に変化がもたらされることなどよりも)、それが、本作に託した彼女の理想(と現実)のようにも響いてくる。

しかも、本作のCDパッケージには、収録曲の曲名及びクレジットの記載がないため(ある意味、カニエの『イーザス』のパッケージ以上にアート・ディレクションにこだわっている)、テーム・インパラの原曲を知らないリスナーなら、新曲として聴いてしまうだろう。その一方で、2016年のリアーナとしては、これが誰が書いた曲なのか、また、彼女自身が選んだのかどうか知らないけれど、“デスペラード”で耳に残るのが、バンクスの“ウェイティング・ゲーム”のバック・ヴォーカル・パートであることが、聴けばすぐわかるような、そんなリスナーを彼女自身が求めていたのではないだろうか? そして、この2曲先には、ドゥワップの“ラヴ・オン・ザ・ブレイン”が出てくるのも、そういった指標の一つだろう。

ただ、これらを振り切っている、あるいは、振り幅、とみるか、あるいは、さらに突っ込んで、特定の色をつけないことが今回のアルバムでは目的化されている、とみるべきなのか。リアーナ本人は歌詞を含む曲作りには参加していないものの“アメリカン・オキシジェン”や、あるいは(この曲とは内容的には180度視点が異なる)“ビッチ・ベター・ハヴ・マイ・マネー”のような、はっきりと「色」がついた曲は、振り幅の面では、全く申し分ないものなのに、本作への収録が見送られている。その一方で、収録曲の“キッス・イット・ベター”でヌーノ・ベッテンコートのギターが聞こえてくると、リアーナの音楽面での活動をフォローしてきたリスナーなら、安心感を覚えるはずだし、“ウー”は、共演相手のトラヴィス・スコットのアルバムに入っていたような曲だ。

システム・エラーのせいで、発売前に、フリー・ダウンロードで大量に出回ってしまった、リアーナの約3年ぶりの新作となる本作だが、もともとはサプライズ・リリースだったはず。それだから、というわけではないが、かつて、ビヨンセが前作から2年半ぶりのアルバム『ビヨンセ』をサプライズ・リリースに踏み切った真の理由と同質のもの(あのアルバムで彼女があそこまでトラップで歌っていることが、事前に知られていたら……)が、現実には本作制作の背景にありそうだし、全体の仕上がり具合(例えば、収録曲のタイプが多岐に及んでいても、エンジニア的なプロデューサーを一人立てて、サウンド的には一定以上の統一感を持たせる等)についても、実は似たり寄ったりではないだろうか。

文:小林雅明

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