全世界で絶賛の嵐が吹き荒れるスフィアン・スティーヴンスのアルバム『キャリー&ローウェル』。しかし、一度さらりと聴いただけでは、おそらく拍子抜け。そんな人もいるに違いない。
というわけで、〈サイン・マガジン〉が誇る「インディ三賢者」こと、岡村詩野、天井潤之介、清水祐也の三氏にスフィアン・スティーヴンスに関する同じ質問を投げかけ、その回答を照らし合わせることで、スフィアンの魅力を多角的に炙り出す――というこの企画、これにて完結です。
スフィアンという作家の全体像を俯瞰するための「作家編」に続き、最新作『キャリー&ローウェル』にフォーカスした「作品編」。まだこれ以前の記事を読んでいないという人は、以下のリンクから飛んで、まずはそちらをご覧ください。
ゼロ年代USインディにおける最重要人物、
スフィアン・スティーヴンスの作家としての
横顔を炙り出す13の質問。part.1
ゼロ年代USインディにおける最重要人物、
スフィアン・スティーヴンスの作家としての
横顔を炙り出す13の質問。part.2
ゼロ年代USインディにおける最重要人物、
スフィアン・スティーヴンスの作家としての
横顔を炙り出す13の質問。part.3
あなたはまだスフィアン・スティーヴンス
『キャリー&ローウェル』を聴いてはいない。
誰もが見過ごしがちな、本年度最重要作の
細部をすべて解きほぐす17の視点 part.1
では、岡村詩野と清水祐也、両氏の回答をどうぞ。なかなかにスリリングですよ。
1. 北米の〈ピッチフォーク〉がこの2015年、スフィアン・スティーヴンスのアルバム『キャリー&ローウェル』とケンドリック・ラマーのアルバム『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』それぞれに対し、どちらにも9.3点という超高得点をつけたことに対して、そのレヴューの内容含め、あなたの所感を教えて下さい。
清水:賛否にかかわらず、〈ピッチフォーク〉の採点やレヴューの内容に対するリアクションとして何かを語るという行為自体が、無意識に隷属関係にあることを露呈しているようであまり好きではありません。
岡村:最初は、当然だろうという素直な思いと、〈ピッチフォーク〉も手堅いなあ、という思いとが交錯しました。ですが、実際に読んでみると、特にスフィアンの方は久々に力の入ったレヴューになっている。中でも聖書からの投影、引用に触れている点で、かなり丁寧に聴き、読み解いているなあと思いました。スフィアンと母親の関係は、多数のアメリカ人にとって自身とイエス・キリストの関係にあたり、すなわち、キリスト教に対する一種の諦念と限界を提唱する作品でもある、という解釈を私自身この作品に感じていたことなので、読んでいて示唆に富んだ原稿であると受け止めました。そして、少しだけ触れていた2004年の『セヴン・スワンズ』との関連については……場所を改めて書かせてもらおうと思います。
2. あなたなら、あなた自身のCD棚に並べたこのアルバムの両側に、誰の、どのアルバムを並べますか? その理由と共にお答え下さい。
清水:質問の意図を察しつつも馬鹿正直に答えると、同一アーティストの作品はリリース順に並べているので、おそらく左にはスフィアン・スティーヴンスの『ジ・エイジ・オブ・アッズ』が来ます。一番取り出しやすいように棚の右端に置いてあるので、右隣はありません。
岡村:左側はハリー・スミスが監修したオムニバス『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』と、アラン・ローマックスが発掘したサン・ハウスの曲を集めた『マーティン・スコセッシのブルース』。スフィアンはハリー・スミスやアラン・ローマックスの仕事の意思を継承したアーティストだから。ボブ・ディランのキャリア初のクリスマス・アルバム『クリスマス・イン・ザ・ハート』も並べるかも。ビバ、キリスト教!のやけっぱちな気分で。右側は……このアルバムにダイレクトに見えづらいですが、セレンゲティ、サン・ラックスらの作品を連ねると思います。
3. あなたが『キャリー&ローウェル』を聴いた時の第一印象を教えて下さい。そして、何回か聴くことで、最初には気付かなかった発見があれば、それについても教えて下さい。
清水:ポール・サイモンの『ソング・ブック』みたいだと思いましたが、聴いていくうちに、スフィアンのギターや歌声と同じぐらいの割合で、アンビエントな環境音や電子音、ノイズが含まれていることに気づきました。
岡村:最初も今も変わりません。何の留保もなく素晴らしいアルバム。パーソナルな作品、と評価されることが多いですが、これほど社会的なアルバムも近年なかったと感じます。最初の質問の答えにも重なりますが、リリックをしっかりと読むことで強烈なキリスト教への愛憎が感じられる作品であることを確信しました。
4. このアルバムにおけるハイ・ポイント――あなた自身が何度も聴き返したくなる、もっとも感動的な瞬間は、どの曲の、どの辺り、実際には何が起こっている部分でしょうか? その理由と合わせて、お答え下さい。
清水:“シュッド・ハヴ・ノウン・ベター”の後半、フォーク・ギターの伴奏から電子音とバンジョーの演奏に切り替わる瞬間。それは母親という過去の亡霊から、兄のちいさな娘という、未来の象徴へと視点が切り替わる瞬間でもあります。
岡村:“ノー・シェイド・イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・クロス”。徐々にフェイドインしてきて、「十字架の影の中に隠れる場所はない」という最後のフレーズに向かってひたすら淡々とアコギのアルペジオが繰り返されるも、スフィアンのコーラスが最後のそのフレーズで最も重層的に響かせてある部分。宅録でネイキッドに録音されている点からは、結局のところ人間はどこにも逃げも隠れもできない、救われる場所さえないのだということが伝わってくる。僅か2分40秒ほどの抑揚のない曲なのにスフィアンの哲学が凝縮された力作。
5. 私ならこの作品をシンガー・ソングライター・アルバムとは呼びません。非常にカテゴライズが難しい。その理由はこの作品が歌とアコースティック楽器を中心に組み立てられているかに見えて、実際はエレクトロニクスの使用を含め、とてもエクレクティックであり、同時に、最小限の音しか使っていないミニマルスティックなものだからです。あなたがレコード屋さんのバイヤーだとして、このアルバムをどのようなカテゴリーで紹介しますか?
清水:「店長のオススメ」or「メディテーション&ヒーリング」。
岡村:「現代音楽」、もしくは「民族音楽」。
6. もしあなたがレコード屋さん店頭の本作のポップ文章を見て、思わず憤慨してしまうような、だが非常にありがちな、ステレオタイプの文章を思い浮かべて、出来るだけ普段あなたが感じているような殺意と怒りを抑えて、それに相当するような文章をここに記して下さい。
清水:「〈ピッチフォーク〉で9.3点!」
岡村:「文句なしに泣ける! USインディ最重要人物が原点回帰のフォーク・サウンドによって描き出した家族の絆の大切さ。ケンドリック・ラマー新作のような社会的/政治的なメッセージを掲げた作品もいいけど、時にはこうしたパーソナルな世界の心温まる物語に癒されたいですよね!」
7. この『キャリー&ローウェル』という作品の、和声、リズムにおいて、もっとも傑出しているポイントは何だと思いますか?
清水:リズムがほとんどないところ。それがほとんど気にならないところ。
岡村:ヘッドホンなどで聴くと、いくつかの曲の高音部分で不協和音を生じさせている点。ロバート・ジョンソンがギター1本で聴かせたリズムを再現しようとしている点。
8. この『キャリー&ローウェル』という作品の、録音、及び、プロダクションにおいて、もっとも傑出しているポイントは何だと思いますか?
清水:録音時期、場所、クオリティなど実際には多岐に渡っているにもかかわらず、最小限のオーヴァーダブを施すことで統一感を持たせているところ。
岡村:安テレコで録ったのではないかと思えるほどモコモコと籠った部分と、極めてクリーンな録音とを対比させている点。フォークが発見された時代の匂いを最低限の録音で再現しつつ、ヒップホップやエレクトロニカと地続きの現代の音として上書きしようとする意思を感じます。
9. スフィアン・スティーヴンス作品のプロダクションは、もっと大編成の交響楽編成を持ったものから、シンプルな弾き語り作品まで、多岐に渡っています。しかし、本作がこのようにミニマルスティックな音構成になった理由についてのあなたの解釈を教えて下さい。
清水:実母の死を扱った作品にふさわしい方法を選んだのだと思います。
岡村:大編成のオーケストラルな作品でもミニマルに聴かせる曲を入れてきたスフィアンにとって、あるいは過去に類似とされる(実際は違うが)『セヴン・スワンズ』のような作品を発表しているスフィアンにとって、こうした音構成は決して突飛なものではないと考えます。ただし、個人⇔社会⇔宗教の関係を聴き手に促す歌詞の内容に即して考えた時、今回はとりわけ言葉に集中してほしいという意図があったのではないか、と思われます。
10. この作品は言葉の意味を重要視した作品だと思いますか? だとすれば、この作品において、言葉は主にどのような役割を担わされているのか、教えて下さい。
清水:行き場のない感情は、一度言葉にして吐き出すことで整理されるのだと思います。歌詞の本当の意味は、もしかしたらスフィアン本人にしかわからないのかもしれません。けれども言葉が乗ることで、曲に込められた感情が、聴き手にも掴みやすくなっているのではないかと思います。
岡村:そう思います。アメリカの黒歴史を理解し、贖罪するための語り部としての役割。
11. 本作がスフィアン・スティーヴンスの自身の両親の名前を冠した理由について、あなたなりの解釈を教えて下さい。
清水:どんな作品にも少なからず作り手の自伝的な要素が含まれていると思いますが、それを公にするのはリスクを背負うことでもあるので、多くの場合はそれを良しとしません。ただしモデルのひとりである実母が既に亡くなっていることもあり、またスフィアン本人も、作品を自身の感情の隠れ蓑にしたくはなかったのだと思います。
岡村:本作は、移民として大陸に押し寄せてネイティヴ・アメリカンを虐殺したヨーロッパ白人と、アフリカから連行されてきて労働させられた黒人との関係を炙り出そうとした作品でもあるように感じます。ただ、それを表に出さず実母と継父との幼少時代の関係をテーマとし、身内を題材にすることで、合衆国民として極めて身近な命題であることを浮き彫りにしたかったのではないでしょうか。幼少時には反発していたその継父と今は結局〈アズマティック・キティ〉というレーベルを共に運営しているということと、黒歴史にフタをして今は表面的には黒人と白人がうまく一つの社会で共存しているとする現在の社会状況にも重ねているように感じます。
12. この作品が作家自身の両親との関係をモチーフにしたことが作品にもたらした影響、あるいは、その結果、この作品がリスナーに与えるだろう効果についても教えて下さい。
清水:これまでになくパーソナルでエモーショナルな作品になっているので、そこに感情移入できる人もいれば、逆にそれを拒む結果にもなっていると思います。
岡村:単なる血縁の両親ではなく、父親が再婚相手であるということが結構重要な気がしています。結果として、民族的につながりのない者同士が同じ社会で生きている合衆国の現状を、身内の例(しかも、決して希ではないであろう)を出すことで提案しようとしているのではないでしょうか。
13. 本作品のすべてリリックのうち、あなたがもっとも感銘を受けた1ライン、もしくは、もっとも重要だと感じる1ラインをその理由と共に教えて下さい。
清水:「歌を歌って何になる/彼らが聴くことさえしないのだとしたら?」。おそらくはスフィアンの亡くなった母親に向けられた一節ですが、音楽の作り手と聴き手、文章の書き手と読み手など、あらゆることに当てはめられると思います。人目に晒されなかった芸術作品は無意味なのでしょうか? それとも作るという行為自体が尊いのでしょうか? 本作は言わば、読むことのできない人に宛てた手紙です。しかし読まれるということを意識しなかった手紙こそが、もっとも美しい手紙だと言えるのかもしれません。
岡村:“ジ・オンリー・シング”の中の一節。「Should I Tear My Eyes Out Now?/Everything I See Returns To You Somehow(眼に映るものすべてがあなたを思い出すから、この眼を引きちぎってしまえばいいのか?)」――強烈な自己批判と、合衆国批判が感じられる一節だから。“あなた”とは過去の様々な罪。でも、決して引きちぎってはいけない、しっかり現実を見ろ、とメッセージを投げかけているように感じます。
14. 元来、作品というのは、作家の何かしらの主張や思想を運ぶためのヴィークルではない。誰もが取り立てて意識することのなかった疑問や問題意識を浮かび上がらせ、その答えをリスナーと共にシェアしようとする触媒です。特にスフィアン・スティーヴンスという作家はそうした傾向が強い、と私は考えます。だとすれば、このアルバム『キャリー&ローウェル』は、どのような問題意識、どのような疑問をリスナーに投げ掛けようとしている作品だと言えますか?
清水:アートとは本来そういうものなのかもしれません。ただしスフィアン自身が強調しているように、本作はアートではないので、リスナーに問題意識や疑問を投げ掛けようとしている作品ではないと思います。だからこの質問にあえて答えるのならば、「すべての作品が問題意識や疑問をリスナーに投げかかるために存在するのではない、という問題提起」なのだと思います。
岡村:上記これまでの質問で何度か回答しているように、ネイティヴ・アメリカン、黒人を利用して世界の頂点に君臨してきた合衆国の凋落を前提に、キリスト教思想を盾にして正当化してきた合衆国の過去の黒歴史をしっかり認識して、本来的なアメリカというコンセプトに基づいた新たな歴史の1ページ目を開けようと促すこと。または、血のつながりのない他民族同士が共存するという理想と必要性、と同時にその難しさ。
15. これからの2年間にあなたは何回このアルバムを聴くと思いますか? どんな機器を使い、どんなシチュエーションにおいて、あなたはこの作品を聴くのか? そして、あなた自身にどんな変化をもたらすだろうか、についても教えて下さい。
清水:バンドキャンプにもアップされていたので、仕事場や外出先で聴く機会が増えるかもしれません。あるいは自宅でギターを抱えて、ヘッドホンで聴きながら耳コピするかも。その結果ビートルズの“ブラックバード”以外にも弾き語りのレパートリーが増えるかもしれません。
岡村:既に初めて聴いてから100回を越す頻度です。どこにいようと、何をしようと、誰といようと、結局自分という事実を認めることからしか何も始まらないし、社会とはその集合、集積でしかない、ということを、これから死ぬまで何度も何度も再認識させられるでしょう。
16. あなたが自身の死の間際に、この作品をあなたの幼い孫にプレゼントするとして、あなたなら、どんなメッセージを添えますか?
清水:「よみかた:すふぃあん・すてぃーぶんす」
岡村:「with so many love and hate.」
17. この作品が初のスフィアン・スティーヴンスだったリスナーに向けて、これまでのスフィアン・スティーヴンスのディスコグラフィの中で、あなたのレコメンド・アルバムを1枚、レコメンド・トラックを1曲、その理由と共に教えて下さい。
清水:アルバム『イリノイ』。トラック“インポッシブル・ソウル”。1枚/1曲のなかにあらゆる要素が詰まっているので。
岡村:『ミシガン』の中の“フォー・ザ・ウィドウズ・イン・パラダイス、フォーザ・ファーザーレス・イン・イプシランティ”。父親のいない子供たちと未亡人たち……というタイトル自体からも一目瞭然。宇宙の中のちっちゃなちっちゃな星の中の、たった一つの大陸の中のたかだか一つの国の中に暮らす者にとって本当に隣人とは誰なんだろう? 本当の血縁、本当に親族とは誰なんだろう? 路上で今にも死にかけている老人かもしれないし、肌の色が異なる川の向こうの子供かもしれない、ということをスフィアンはこの曲でバンジョーの弾き語りというシンプルなスタイルの中で淡々と訴え、そして、それこそが本質的なキリスト教思想のはずなのに……と嘆いている。まさに本作の伏線のような曲だと思います。